メインメニュー


ログイン
ユーザ名:

パスワード:


パスワード紛失

新規登録


総本家 河道屋「蕎麦ほうる」


河道屋さんの看板の写真。姉小路通、西側の顔とも言うべき河道屋さん。「蕎麦ほうる」と書かれた看板は西田天香の書。

その名を聞いて、何を連想されますか?カリリと噛むと、口の中でしゅわんと溶ける優しい甘さとほんのり漂うそば粉の香りで、京の名菓としてその名を馳せた「蕎麦ほうる」。
 私の場合は、いつもお茶に浸しては運んでいた祖母のおちょぼ口と、小物の整理にと、母がいくつもとっていた空き缶が浮かんできました。懐かしくて、優しくて、素朴で、それでいて品のいいお菓子。

総本家 河道屋さんを描いた絵「町屋に見る教の風景」明是(あけこれ)栄蔵 洋画作品


 今回の姉小路にんげんマップは、六月二十九日に開催した講演会よりお届けしたいと思います。講師に「蕎麦ほうる」の老舗、河道屋さんの十六代当主植田貢太郎さんをお迎えして、蕎麦のあれこれや享保年間以前から続くお店の話、それからもちろん「蕎麦ほうる」の話など、時折質問を交えながら、和やかにお話をお聞きすることができました。
 「聞いてみたかったけど、聞きそびれていた」老舗のあれこれ。お茶でも飲みながら、「蕎麦ほうる」をお供に、ご一緒にいかがですか?


うちの店について

 いつ頃からこの界隈で商いをさせていただいているのか、さだかな資料はございませんが、店のほうに享保八年(一七二三年)の時の町内の書き付けが残っております。その書き付けによりますと、どうもその年に町内の役をしておりましたようで、?河道屋なにがし?という名前が出ております。ですから既にその時にはこの地に店があったということになりますので、その時から勘定いたしますと、だいたい三百年弱というところになりますでしょうか。

植田貢太郎さんの写真


 その頃は、蕎麦屋ではなく菓子屋を営んでいたようでございます。もっとも菓子屋と申しましても、亀末さんのような上菓子屋さんならば鑑札を持っておられて、いわゆる和三盆のようなものが手に入るんですが、手前どものような普通のまちの菓子屋にはお砂糖はまわってまいりません。ですから今で言うところの餅菓子屋のようなものを営んでいたようでございます。 なぜそうなったものかよくわかってはいないのですが、元禄の頃は、菓子屋の副業として蕎麦屋も営む所が多かったようでございます。ですからその頃は、手前どものような商いの形態は、割合一般的であったと言えるかと思います。それが江戸時代中頃から、蕎麦屋は蕎麦屋、菓子屋は菓子屋と分かれて発達していったところもございますし、尾張屋さんや手前どものように、蕎麦屋と菓子屋という古い形態のまま、ずっと今日に至っているという所もあるわけでございます。

蕎麦の語源

 ご存じのように、手前どもでは本家の蕎麦ぼうろとともに、麩屋町を少し下がった晦庵で蕎麦屋も営んでおりますが、今日はまずその蕎麦の話から、順次進めてまいりましょう。
 それまでは「そば麦」と呼ばれていたようですが、「蕎麦」という名称で呼ばれるようになったのは、平安時代以降ではないかと聞き及んでおります。その語源としていくつかございまして、一つは大工さんの用語から来たという説がございます。これは大工さんが木の角をとる時に「そばをとる」という言い方をするらしいのですが、蕎麦の実が菱形になっておりまして、丸いものの角を削ったような形になっているので、そこから来たのではないかという説です。
 それからもう一つは「??のそば」という意味から来たという説もございます。蕎麦は元来、山の険しい所、どちらかというと平地ではなくてあまり米ができないような所で栽培されているところから、山の脇とかそばという意味がなまって、「蕎麦」という呼び名になったというものです。
 それからさらに、蕎麦の形が三角形で、御紋の形に似ていることから、御所では「あつもの」とか「すぐり」という名で呼ばれていたということですが、実際それがどういう経緯で今に至ったかは定かではございません。

そば粉になるまで

 蕎麦は蓼科の一年草でして、大別して夏蕎麦と秋蕎麦がございます。六月に植えて八月に収穫するのが夏蕎麦、それから八月に植えて十月に収穫するのが秋蕎麦ということになります。どうしても米作が中心になり、蕎麦はその裏作的な形で発達したものですから、八月から十月の秋蕎麦が主流になります。
 種まきから七十五日で収穫しまして、自然乾燥して、石臼でつき、ふるいでとって、白いそば粉になります。一反で百三十五キログラム、だいたい三俵ほどの蕎麦が穫れまして、それを精製しますと百十キロ、歩留まりで七割くらいがそば粉として使えます。
 一粒の蕎麦のうち、皮がだいたい30%ほどを占め、あと「花粉」と言われる真ん中の白い粉があるんですが、それが7%程度で、あとの残された60%強がそば粉として店で使っているものになります。

蕎麦の産地

 現在、国産品としては北海道の十勝地方、九州の鹿児島や宮崎や熊本などでつくられているものがおおかたを占めます。一般には信州のお蕎麦が有名ですね。信州で確かにお作りにはなっているんですが、作付け面積からも全国的に供給できるような量にはなりません。ですから信州近辺や関東などのごく一部で使われているというのが現状です。
 輸入物になりますと、中国やカナダや北アメリカなどが主要な輸入国ということになります。今、国内産が30%で輸入物が70%にものぼりまして、国内だけでは全くまかなえないという状態になっております。

蕎麦のルーツ

 蕎麦の原産地はシベリアやバイカル湖付近と言われておりまして、それがチベット、中央アジア、中国、朝鮮とわたって、日本に伝わってきたのではないかと考えられております。

河道屋 晩庵の店構えの写真


 以前、どこかのテレビ番組でやっておりましたけれども、チベットの方へ行きますと、蕎麦を練りまして、寒天を押し出すような、ところてんのような形にして食べていました。まあ、それが蕎麦のもともとの食べ方であったようです。と申しますのも、そば粉にはグルテンがないものですから、それ自体に粘度がございません。ですから瞬間的にぎゅっと押し出して食べる、割合ぼそぼそとした食感のものが、もともとの形なのだと思います。ですから茹でるというよりも、蒸して食べていたようですね。それが日本でいう蕎麦の形態になったのは、だいぶ後になってからの話でございます。

出汁と蕎麦

 どちらかと言うと関西圏はうどんや素麺が中心で、関東は蕎麦というイメージがございますね。しかし、蕎麦が日本に最初に入ってきたのは、関東ではなく、都のある関西でした。それが関東に行って発達したわけです。
 これには安価であるということと、何よりもお出汁の影響が大きかったのだと思います。ご存じのように関西ではお出汁に昆布とかつおが使われるんですが、関東はかつおだけで、あまり昆布が使われません。これは水に軟水と硬水の違いがあって、関東の方では昆布だしというものがあまり出ないものですから、どうしても鰹節主体のお出汁で食べられるようになったわけです。そんな背景があって、関東で蕎麦が発達したのではないかと思います。現在は関東であろうが関西であろうがあまり変わらないような格好にはなっておりますが。

二八蕎麦というのは…

 二八蕎麦とよく言われますね。一つには江戸時代の初期にお蕎麦が一杯八文だったもので、二杯で十六文ということで、二八という名前が付いたというふうないわれがございます。またそば粉の割合をあらわしたもので、そば粉が八割でつなぎのうどん粉が二割という意味で二八と言われる場合もございます。だいたい二八蕎麦というのは、スタンダードなお蕎麦屋さんで普通に使われている割合ではあります。それが三対七になったり、四対六になったり、それは店によっていろいろ配合の比率は違います。蕎麦自体は先ほど申しましたように、水で練ってもくっつきません。どうしてもそば粉百パーセントでつくろうという場合は、お湯で練りますと、グルテンが出てきまして繋がるんですが、水でなんぼやりましても皆さんがお召し上がりになる蕎麦の状態にはなりません。そこに二割のつなぎを入れることによって、ああいう長いものになるわけです。今のつなぎになる前は、米のとぎ汁であるとか、豆の潰したもの、あるいは布海苔のようなもの、草の葉をつなぎにして作られている所もあるようでございます。

素材としての蕎麦の効用について

 え、蕎麦の効用ですか?それはもう栄養豊富で、と申し上げたいところなんですが、実は普通の穀類と変わりません。ようテレビなどでは、蕎麦に含まれるルチンの効用が取りざたされてはおりますが…。なんでもルチンが毛細血管をきれいにするということで、高血圧に効くというような宣伝をしてはりますね。ところが実際は、蕎麦をお召し上がりになっても、ルチンはほとんど体内には入りません。ルチンは蕎麦を湯がいたゆで汁の方に出ていますので、蕎麦だけを召し上がりましても、その中にはほとんど入ってない状態なわけです。もし、どうしてもルチンをとおっしゃるのであれば、ざるそばについているそば湯の中に含まれておりますので、そば湯を一緒にお召し上がりいただくとよろしいかと思います。


蕎麦ほうる

 さて、本家の店のほうでは、「蕎麦ほうる」というものをやっているんですが、これには小麦粉と卵とそば粉、砂糖、それから重曹が入っております。つくりだしたのは明治の始め頃になりましょうか。昔は卵は非常に高級なものでしたし、砂糖が一般の家庭で手に入るようになったのが、ちょうどその頃でして、私の三代前の者が作りだしたと聞いております。

蕎麦ほうるの写真。漆器に入っています。


 ご存じのようにいわゆるクッキーでして、つこてる材料はほとんどお蕎麦と同じで、そこに卵と砂糖を足したものです。ですから蕎麦屋をやっている家の手持ちの材料で、手打ちの技術でもって、たまたまのして焼いたものが、蕎麦ぼうろの発祥だろうと思います。「いつ頃できたんや」とようお尋ねになるんですが、お店で売るようになったのは、かなり経ってからではないかと思います。
 昔は今のように交通の便が良くなかったものですから、京都に観光に来られた時のお土産として、どうしても日持ちということが非常に問題になってまいります。八つ橋にしても(硬いほうの八つ橋です)、五色豆にしてもそうですし、手前どもの蕎麦ほうるにしても、上菓子などに比べると割合日持ちがいたしますもので、全国的に知られるようになったのだと思います。

完全な機械化はやはり無理ですね

 現在、機械化はしているんですが、全部オートメーションというわけにはまいりません。やはり人の手は必要です。うちの場合は、父の代からのこだわりがあって、練るための攪拌器はかまぼこ屋さんがつこたはる石臼を使うんです。と申しますのは、練る時に粘りを出したくないもんですから、容器自体に熱をもたんように石を使うわけです。そういうこだわりがあるもんですから、なかなか完全に機械化というのはできないですね。ただ、昔の全くの手仕事の時はちょっとでも油断するとすぐに不あがりが出来たりしたもんですが、そういうロスは確かに減りましたけれども。

何か、ご質問がありましたら…

 

「蕎麦ぼうろ」なのか「蕎麦ほうる」なのか

 ええ、ええ、「蕎麦ぼうろ」と皆さんおっしゃいますね。南蛮人から伝わってきた言葉としては「ほうる」でしたので、正しくはと申しますか、うちの商品名としては「蕎麦ほうる」となっております。ただ、「ぼうろ」とした方が耳に馴染みはよろしいですね。ですからお客さんも「蕎麦ぼうろ」とおっしゃることが多いんですが、その辺はどちらでも結構ですと(笑)。ただ、看板の方は、「蕎麦ほうる」と濁らない書き方をしております。

蕎麦ほうるの梅の形はなぜ?

 さあ、特に意味があるような事は聞いておりません。たまたま昔そういう押し型があって、それで作ったんではないでしょうか。もうちょっといわれでもあると良かったんですけれども…。

「河道屋」さんが何軒もありますが

 はい、京都で同じ「河道屋」という屋号で、蕎麦屋などを営んでいる店があるんですが、漢字で書いてある分は、うちの「分かれ」で、今現在九軒残っております(平仮名の方の屋号は違います)。昔は十何軒あったんですが、廃業してしまったり転職したりで、現在残っているのはそれだけになりました。
 昔は本家別家のようなものができたんですが、今のこういう情勢ではとても別家というようなものは出来ない状態です。ですから私から見て先先代、もしくはその前の代の別家のものがずっと繋がって京都で三代目四代目として商売をさせていただいているというのが現状でございます。

吉田神社の年越しそばは、京都の風物詩になっていますが

 戦後間もない頃に、別家さんも集まって、のれん内でやってみようと、うちの父が言い出したものです。一緒に仕事をすることで、のれん内の親睦を深める意味もありました。昭和二十七年の節分に「河道屋のれん」の名で始めまして、もう五十年以上になりましょうか。年を重ねるごとに、思いのほか大繁盛を頂きまして、冬の風物詩のように皆さんに思っていただけるのは、本当に有り難いことと存じております。

「辛味大根」を保存されたのはお父さんだとお聞きしましたが

 確かに、あれはほとんど薬味でしか使いようがないような大根ですので、お百姓さんが作られなくなって、というような状況になったこともありました。うちは店でつこてるもんですから、鷹ヶ峰のほうで頼んで作ってもらいます。うちだけでつこてるからうちの分だけ賄えれば良いというようなもんですが、野菜自体がなくなってしまうおそれがあるんですね。作っておられる所が一軒ということになってくると、もしそのご主人が「やめた」と言わはったら、技術が何にも残らないわけですから。
 今、京野菜ブームで、またいろんな方が作られるようになりました。基本的には代々残さないかんもんやから、何軒かの方がやっていただけたら、非常にうれしいと思います。錦には辛味大根が売っておりますし、実は韓国にも出ているんです。元々はどこでも手に入ったものが、需要がなくなってやめてしまって、今またどうやらブームで増えてくる。増えている時はいいんですが、需要が縮んだ時に、どこが次に繋げるのかということですね。そういう意味では、父がずっと続けたことは本当によかったと思っております。

プリンタ出力用画面 友達に伝える